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コラム


人物レビュー 日本のシュリーマン 米村喜男衛 第1部「モヨロ貝塚と出会うまで」
網走市の史跡「モヨロ貝塚」。千数百年前に北方からの渡来民族が展開した「オホーツク文化」を代表する遺跡です。大正初期に若くして貝塚を発見したのは、米村喜男衛(よねむら・きおえ)さん。網走で、理髪店を経営しながら在野の考古学者として、モヨロ貝塚の調査、研究、保存に生涯を捧げました。その一生は、人生の先達として参考になるエピソードに満ちています。考古学とはアングルを変えて、その歩みをたどり、残してくれた価値を考えてみます。 (若き日の米村喜男衛さん=米村衛さん提供) 司馬遼太郎氏が注目した人生 国民的作家、司馬遼太郎氏(1923~1996年)は、オホーツク文化と米村喜男衛さんの人生に強い関心を抱きました。1991年9月と、翌92年1月。稚内から知床にかけて、歴史と人間について思索しつつ旅をしています。そして作品にした「街道をゆく」シリーズの「オホーツク街道」。最初の舞台は網走、それも 米村さんのエピソードで物語は始まります。 「網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、いままで知られていた〝歴史
masahiko fukuda
2025年11月17日読了時間: 7分


人物レビュー 日本のシュリーマン 米村喜男衛 第2部「バリカンと考古学 網走で奮闘」
さて、網走に定住しはじめた米村喜男衛さんは、バリカンを手に理髪店を開業しながら、貝塚の発掘研究に励みます。時代は大正から昭和、そして太平洋戦争から戦後。社会活動を通じて地元に溶け込み、モヨロ貝塚発掘と資料保存に生涯をかけるようになります。日本のシュリーマン、米村さんの本領発揮です。 (お墓の発掘現場の米村喜男衛さん=米村衛さん提供) 地元に溶け込んだ大正期 米村さんは開業した理髪店に「ババ―ショップ」という当時としてはモダンな看板を掲げ、町の人々から注目されたようです。そして、昼間は理髪店の主人としての仕事に精を出す一方で、モヨロ貝塚で遺物を採集するのが日課となりました。 「私は毎朝、まだ明けきらぬ薄暗いうちに起きて、そこへ出かけた。遺物の採集が気になって明るくなるまで寝ていられないのである。(中略)土器をはじめ、石器、骨角器、鉄器など採集したものは、閉店後に参考書と首っ引きで調べる。毎晩、眠くなって寝つぶれるまで研究を続ける」(自叙伝「モヨロ貝塚」) 大正期は、米村さんが地元に溶け込んでいった時期でした。地元の女性、いささ
masahiko fukuda
2025年11月17日読了時間: 9分


人物レビュー 日本のシュリーマン 米村喜男衛 第3部なぜ「オレは幸せだった」か
「好きなことをして、人に褒められてオレは幸せだった」と晩年、語った日本のシュリーマン、米村喜男衛さん。その理由と秘訣、さらに米村さんの人生から私たちが学ぶべき点は何でしょうか。図形の問題を解くのに補助線が有効なように、いくつか仮説、推論を立てながら考えてみます。 (遺跡に立つ米村喜男衛さん・中央上=米村衛さん提供) 幸運な偶然を引き寄せる力 まずは、予期せぬ人生最大の幸運、モヨロ貝塚発見。今風に言えば、「ぶっ飛び」の発見です。これは、宝くじに当たったような単なる偶然だったのでしょうか。 あまりなじみのない言葉ながら、英語にはセレンディピティ(Serendipity)といって、幸運、偶然の意味のほか、予想していなかったことの発見、 幸運な偶然を引き寄せる力などを意味する言葉があります。自然 科学の分野では、こうした例が多く、レントゲン、ペニシリンの発見も、実験中の予期せぬことや失敗がきっかけになったため、その有名な例とされています。 モヨロ貝塚の発見も、セレンディピティだと解釈すれば、その本質がより明確になります。脳科
masahiko fukuda
2025年11月17日読了時間: 10分


「全身全霊はもう…」最終回 ④森鴎外の「予言」
かなしきは小樽の町よ…」。明治末期に、経済活動に奔走する小樽の人々を詠んだ歌人石川啄木の話題を前回のコラムで紹介しました。啄木は上京後、文豪森鴎外と交流しています。その鴎外は明治末期、小説「青年」一節に次のような文章を残しています。 その先に生活はない… 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一生懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。 現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。 これ、戦後の多くの男性サラリーマンの姿に重なりませんか。まずは学校に入る。将来に備えて、先生の言うことをよく聞いて一生懸命勉強しようとする。学校を卒業すると、次は職場。上司の言う通り営業成績をあげノルマを達成しようとする。時折、悠々自適の生活を夢見て。そんな生活を長年続け
masahiko fukuda
2025年8月31日読了時間: 3分


「全身全霊はもう…」その③ かなしきは小樽の町よ
経済活動に奔走 明治の小樽人 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」 歌人石川啄木は、明治末期の小樽をこう詠みました。経済活動に奔走する小樽の人々を詠んだ作品です。啄木が小樽に滞在したのは、1907年(明治40年)から翌年にかけて。その前後の小樽は日露戦争後、日本領土となった南樺太などとの交易の拠点、北海道経済の中心都市として急速な発展を遂げていた時代です。 「かなしきは…」の歌碑は、小高い丘の上にある水天宮という神社の境内に立ち、そこから小樽港を見渡せます。後に啄木は、小樽の人々の様子をこうも書き残しています。小樽人は歩行せず、常に疾駆す。小樽の生活競争の劇甚なる事、殆ど白兵戦に似たり。(中略)彼等は休息せず、又歌はず、又眺めず。唯疾駆し、唯驀進(ばくしん)す、(「胃弱通信」、1909年=明治42年) もちろん、これは明治日本の一断面に過ぎません。ただ、近代の小樽はこうした人々の努力の積み重ねによって作られたことも忘れてはならないでしょう。一方、啄木の書き残した小樽の人々の姿は、高度成長からバブル期まで経済発展に奔走した
masahiko fukuda
2025年8月9日読了時間: 3分


「全身全霊はもう…」 その② 夫源病(ふげんびょう)
退職後の夫 妻のストレスに 「男の人生、これからが勝負」…。こんな言葉が印象に残っています。勤続40年。65歳で退職した時に、ある年長の方からメールです。組織を離れても、ちゃんと目標を持って元気で張りのある生活を送れるのかどうか。本当に勝負だと自分に言い聞かせています。とはいっても、「老後はのんびりしても、ええやないか」。そんな天使か悪魔のささやきと葛藤しながらの話ですが…。 前回のコラムで、全身全霊で長時間働くことに警鐘を鳴らした気鋭の文芸評論家、三宅香帆さんのベストセラーを紹介。男性サラリーマンが長時間労働で、退職後の人生設計を考える余裕をなくす懸念を指摘しました。「 行くところがない」、「会う人がいない」、「やることがない」。 そんな夫の存在が妻のストレスになるが「夫源病」です。 誕生日に一輪の花を 夫源病の名付けの親は、大阪樟蔭女子大教授だった石蔵文信さんです。10年近く前に、大阪のご自宅でインタビューをお願いしたことがあります。石蔵さんは男性の更年期外来を開設した際、その妻たちも更年期障害に悩んでいることに気付いたそう
masahiko fukuda
2025年7月20日読了時間: 3分


「全身全霊はもう…」その① 気鋭の文芸評論家の警告
「半身(はんみ)で働く社会」を 「燃え尽き症候群は、かっこいいですか?」「全身全霊をやめませんか」…。軽やかな表現に接すると、時代の新しい風に吹かれている気がしてきます。気鋭の文芸評論家、三宅香帆さんのベストセラー「なぜ働いていると 本が読めなくなるのか」(集英社新書)から引用しました。 本書は、日本人の働き方と読書の歴史を振り返り、労働の意味、長時間労働の弊害を探っています。燃え尽き症候群は鬱病に至る病、頑張り過ぎると人は壊れると指摘し、「全身全霊で働く社会」ではなく、「半身(はんみ)で働く社会」を提唱しています。それは「働いても本が読める社会」です。 個人が望む長時間労働とは この主張。長時間労働をしてきた身としては、喝采を叫びたくなるのですが、気になるのは、「個人が長時間労働を望んでしまうような社会構造が生まれている」という警告です。レーガン、サッチャー政権が採用したことで知られる新自由主義を背景に、自己決定と自己責任論、さらには自己実現を仕事で果たそうとする風潮が広まったといいます。 働き方改革が叫ばれる一方で、企業の
masahiko fukuda
2025年7月6日読了時間: 3分


長嶋茂雄さん 「もう一つの21年」
記憶に残る2度の感動シーン 記憶に残るあの試合は、天気のいい日でした。中学1年だった 1968年、札幌・円山球場で長嶋茂雄選手のホームランを観たこ とがあります。鮮やかな一振り。ブーンと弧を描いた打球は外野ス タンドへ。球場の大歓声! 少年の心は踊りました。当時、札幌での 巨人戦開催は確か年3試合、初夏の風物詩でした。 それから53年後、テレビで長嶋さんに再び胸を打たれます。 2021年の東京五輪の開会式。不自由な体で、王貞治さんと松 井秀喜さんとともに聖火ランナーを務め、ゆっくり歩む姿。少年の ころ観たホームランが脳裏をかすめます。ミスタープロ野球でも生 老病死(しょう ろう びょう し)は避けられない。人生の厳粛さを感じ ました。そして、不自由な体でも尊厳をもって役割を果たす姿に、 ジーンとなりました。 脳梗塞後、積極的に人前に 現役選手時代は、努力する姿を極力、人に見せなかったそうで す。しかし、2004年に脳梗塞で倒れ右半身にマヒ、言語に障害 が残った以降、リハビリする姿などをあえて公開するようになりま す。そして、東京ドームに姿を
masahiko fukuda
2025年6月28日読了時間: 3分
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