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「全身全霊はもう…」その③ かなしきは小樽の町よ

  • 執筆者の写真: masahiko fukuda
    masahiko fukuda
  • 8月9日
  • 読了時間: 3分

経済活動に奔走 明治の小樽人

「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」

歌人石川啄木は、明治末期の小樽をこう詠みました。経済活動に奔走する小樽の人々を詠んだ作品です。啄木が小樽に滞在したのは、1907年(明治40年)から翌年にかけて。その前後の小樽は日露戦争後、日本領土となった南樺太などとの交易の拠点、北海道経済の中心都市として急速な発展を遂げていた時代です。


「かなしきは…」の歌碑は、小高い丘の上にある水天宮という神社の境内に立ち、そこから小樽港を見渡せます。後に啄木は、小樽の人々の様子をこうも書き残しています。小樽人は歩行せず、常に疾駆す。小樽の生活競争の劇甚なる事、殆ど白兵戦に似たり。(中略)彼等は休息せず、又歌はず、又眺めず。唯疾駆し、唯驀進(ばくしん)す、(「胃弱通信」、1909年=明治42年)


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もちろん、これは明治日本の一断面に過ぎません。ただ、近代の小樽はこうした人々の努力の積み重ねによって作られたことも忘れてはならないでしょう。一方、啄木の書き残した小樽の人々の姿は、高度成長からバブル期まで経済発展に奔走した日本人をどことなく彷彿させます。例えば「モーレツサラリーマン」、「産業戦士」「24時間戦えますか」…。こうしたキャッチコピーは、極端な表現で余裕のない息苦しさを感じさせる点で、戦時中の「鬼畜米英」、「一億火の玉」、「ほしがりません 勝つまでは」にも似ています。


「富国強兵」と「経済大国」

明治と戦後では、置かれた状況が違いますが、社会に明確な目標が

あった点では共通しています。明治の代表的な価値観が「立身出世」。国家には「富国強兵」という明確な目標がありました。そして、戦後の新しい国家のスローガンは「所得倍増」「経済大国」とこれまた明確です。


孫の声やしぐさが、何かの拍子に祖父母に似ていると感じるように、明治以降の日本人には、経済成長など目標があると、全身全霊で頑張ってしまう傾向が世代を超えて散見されるようです。敗戦後、人口構成の若さと相まって、全身全霊の国民の努力が日本を世界の経済大国に押し上げるのに、大きな役割を果たしてきたのは確かです。しかし、経済成長は、公害や長時間労働、はては過労死といった弊害も生んできました。

 

「悲しき」か「愛(かな)しき」か

全身全霊での長時間労働の弊害を指摘した「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆著)がベストセラーになりました。

趣旨には全面的に賛成ですし、長時間労働はなくしてほしい。ただ、全身全霊で歩んだ戦後の日本人の生き方をどう解釈、評価するか。


解釈といえば、冒頭の啄木の短歌「かなしきは小樽の町よ…」の「かなしきは」は、もともとひらがな表記のため、「悲しきは」「愛(かな)しきは」の両方の解釈ができるそうです。「愛しき」であれば、「愛おしい」の意味になる。わが身も含め戦後の日本人は「悲しき」か「愛しき」か。解釈に迷う戦後80年の夏が続きます。

  

参考 石川啄木全集第四巻(筑摩書房)

「啄木短歌に時代を読む」(近藤典彦、吉川弘文館)

「小樽学 港町から地域を考える」第6章 石川啄木(亀井志乃)

 小樽商科大学出版会


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