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人物レビュー 日本のシュリーマン 米村喜男衛  第2部「バリカンと考古学 網走で奮闘」

執筆者の写真: masahiko fukuda
masahiko fukuda
2025年11月17日
読了時間: 9分

更新日:2025年12月21日

 さて、網走に定住しはじめた米村喜男衛さんは、バリカンを手に理髪店を開業しながら、貝塚の発掘研究に励みます。時代は大正から昭和、そして太平洋戦争から戦後。社会活動を通じて地元に溶け込み、モヨロ貝塚発掘と資料保存に生涯をかけるようになります。日本のシュリーマン、米村さんの本領発揮です。


      (お墓の発掘現場の米村喜男衛さん=米村衛さん提供)

 

地元に溶け込んだ大正期

 米村さんは開業した理髪店に「ババ―ショップ」という当時としてはモダンな看板を掲げ、町の人々から注目されたようです。そして、昼間は理髪店の主人としての仕事に精を出す一方で、モヨロ貝塚で遺物を採集するのが日課となりました。


 「私は毎朝、まだ明けきらぬ薄暗いうちに起きて、そこへ出かけた。遺物の採集が気になって明るくなるまで寝ていられないのである。(中略)土器をはじめ、石器、骨角器、鉄器など採集したものは、閉店後に参考書と首っ引きで調べる。毎晩、眠くなって寝つぶれるまで研究を続ける」(自叙伝「モヨロ貝塚」)


 大正期は、米村さんが地元に溶け込んでいった時期でした。地元の女性、いささんと結婚し、理髪店を会場に実業補習学校の形式で「理容研修会」を開き、災害時の救護活動のため「救護団」も結成しています。1917(大正6)年には、史跡保護と郷土愛の普及のため、網走地方の小中校の教員らを会員に、網走史辿会(しさんかい)」を創立。史辿会には、少年少女の会「すずらん童話会」を設け、地元の伝説の児童劇などを公演。米村さんが網走生まれのアイヌの古老から、地元に伝わる伝説を聞き取りした悲恋物語「チパシリ」などを上演しています。こうして、ソフトの面で郷土史に対する地元の意識を広めていきます。

 

 資料室と化した理髪店の一室を「郷土室」と称するようになり、網走史辿会の事務局にもしています。

 「やがて資料も増えて置き場に困るようになり、大正の中頃街の中心といわれる処に小さいながらも二階建ての家を建て、階下は職場に、階上は遺物の展示室にしたところ、これを見ようとする人達が次第に増え、時には大学の教授や研究者達も訪ねられる様になり、一寸としたミニ博物館の様になった」(遺稿集「モヨロ悠遠」)

 

 後の郷土館・博物館につながるハードの第一段階です。このあたりが米村さんの非凡なところで、一研究者の範囲を超え、ダイナモ(発電機)のような働きをしてソフト、ハードの両面で、貝塚の保存に取り組んでいきます。

 

精力的な研究発表

 網走史辿会は会員が200人余にも達し、1928(昭和3)年に発展解消した北見郷土研究会を組織。米村さんは会報や会の刊行物でモヨロ貝塚の資料を紹介したほか、地元の開拓当初の苦労話を「北見郷土史話」にまとめ、研究会から出版しています。

 

 その後、米村さんは中央の学会誌に、モヨロ貝塚の研究成果を発表し、その存在を印象付けるようになります。1932(昭和7)年の「史前学雑誌」を皮切りに、1935(昭和10)年には「人類学雑誌」、1942、43(昭和17、18)年には「古代文化」。

 それぞれ、竪穴住居、土器、骨角器、漁労具、埋葬、副葬品など独自の文化を紹介しています。なお、モヨロ貝塚の名称は、所在地の地名「最寄」から米村さんが名付け、学会にも定着しました。

 

 一方、1933(昭和8)年には札幌で開かれた北海道原始文化展覧会には米村さんも参加。モヨロ貝塚はじめ千島列島などの土器が展示され、オホーツク海沿岸に広がる文化だということが認識されるようになります。

 

    (モヨロ人の漁労の様子を再現した展示コーナー=モヨロ貝塚館)

 

 米村喜男衛さんの長男で、網走市立郷土博物館の館長も務めた米村哲英さんは、喜男衛さんの生活ぶりをこう回想しています。

 「私が子どものときは、いつもそばで机に向かっていました。店の裏のほうに居間がありましたから、時間があると小さな座り机を自分で持ってきてポンと置き、チラシの裏に鉛筆を走らせていました。そして、また店に戻って散髪をし、ひと息つくと、また居間に来て机に向かう。そんな繰り返しでした。ときには友達と碁を打ってたりもしていましたけれどね」(司馬遼太郎の風景⑦NHKスペシャル「オホーツク街道/十津川街道」)

 

国の史跡に、郷土館も完成

 一方、遺物の盗掘、散逸には絶えず頭を悩ませていたようです。大正期には築港工事が行われ、出土品が高値で売買される始末。モヨロ貝塚が研究対象として有名になるにつれ来訪者が増え、遺物の乱掘も目立つようになります。そこで米村さんが着目したのは、「史蹟名勝天然記念物保護法」です。現在の文化財保護法の前身の一つです。これによる史跡指定を道庁や国に働きかけますが、なかなか埒があきません。米村さんは何度も上京し、粘り強く運動。13年もの努力が実を結び1936(昭和11)年12月に、モヨロ貝塚は国から史跡に指定され法的に保護されることになったのです。

 

 一方、理髪店の資料館は手狭となり、防災上も新たな保管場所が必要になってきました。博物館建設のため、社団法人北見教育会が組織され、周辺の鉱山、自治体の寄付、さらに米村さんが私財を投入。モヨロ貝塚の史跡指定と同じく1936(昭和11)年に、「北見郷土館」(現網走市立郷土博物館)が完成し、米村さんはモヨロ貝塚の出土品、アイヌ文化資料など約3000点を提供しました。

 

 建物の設計を担当したのは、札幌市内の旧小熊邸や日本基督教会北一条教会の設計で知られる洋風建築家の田上(たのうえ)義也氏(1899~1991年)。赤い丸屋根が特徴で、今に至るまで網走のシンボルとして親しまれています。


  (網走市立郷土博物館の外観。国の登録有形文化財に登録されている)


 昭和11年という年は、モヨロ貝塚の保存活動のハード、ソフトが集大成した年でした。しかし、歴史の歯車は軍国主義に向かって急速に回りはじめます。この年には、2・26事件が起こり、翌1937(昭和12)年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり泥沼化。1941(昭和16)年12月の太平洋戦争の開戦へと戦火は拡大の一途で、モヨロ貝塚にも暗雲が漂い始めます。

 

ピンチで機転 憲兵隊長をなだめる

 太平洋戦争の始まる1941(昭和16)年の春。網走の隣、美幌に航空基地を持っていた海軍が、貝塚のある砂丘に軍事施設建設を計画、貝塚が失われる危機に陥りました。抗議した米村さんは、憲兵隊長に引き渡されてしまいます。憲兵といえば軍の警察役であると同時に、国民の思想を取り締まる権限も持っていました。

 「軍の行動を妨害する奴は軍法会議に回されるぞ」と怒鳴る憲兵隊長。大ピンチです。この時、米村さんは努めて穏やかに、次のように語り最強のカードを切ります。

 「戦争中は、陛下のお言葉にそむいてもよいものでしょうか」

 「畏れ多くも、あの貝塚は勅令によって保護されているものです。勅令とは、陛下のお言葉と思います。それをお許しもなく勝手に破壊してもよいものでしょうか」(自叙伝「モヨロ貝塚」)

 

 そう、最強のカードとは「天皇陛下」でした。国の法律による史跡指定を陛下のお言葉(勅令)と表現し、貝塚保護を訴えたのです。これに、憲兵隊長は態度を一変させ、「今日は帰れ」と言います。明治憲法下で、軍の最高指揮権(統帥権)は天皇にありました。憲兵隊長であっても、「陛下のお言葉」にはとうてい太刀打ちできません。この時、米村さんは体力、気力の充実した48歳。豪胆かつ、相手の立場を読み切った乾坤一擲の機転でした。

 

 必死の抗議がきっかけとなり、すぐに海軍省、文部省の協議で、工事は最小限にとどめることになりました。一件落着。モヨロ貝塚は大規模な損害を受ける危機を脱したのです。一部にとどまった工事区域は、米村さんを中心に北大の研究者によって緊急に発掘調査が行われ、100体を超える人骨、土器、骨角器、石器、金属器など多くの遺物が発見されます。

 

 太平洋戦争のさなか、米村さんは、満鉄(南満州鉄道)の招きで満州方面での講演旅行や、千島・樺太(サハリン)へ調査旅行も経験しています。戦争中に、理髪業界からは引退し、北見郷土館の運営と地域社会での公的活動に専念することになります。

 

 そして、終戦間際の1945(昭和20)年7月15日。北海道各地を狙いにした空襲が網走も襲います。死者15人の犠牲が出た「網走空襲」です。米軍機の爆弾は、郷土館近くに落ちてしまいます。当時郷土館近くの住宅に住んでいた米村さんは妻と二人で防空壕に避難、爆弾が落ちた際は防空壕の天井から土砂をかぶりながらも難を逃れます。郷土館、住宅の外回りのガラスが爆風でメチャメチャの被害を受けますが、展示資料は無事でした。

 

オホーツク文化の解明

 北見郷土館は戦後、網走市立郷土博物館となり、米村さんは館長に就任します。(1971年=昭和46年に名誉館長)。戦後は、モヨロ貝塚の調査が格段に進みました。「西の登呂(静岡市)、東のモヨロ」と呼ばれるほどに注目を浴び、考古学ブームを引き起こします。モヨロ貝塚の調査は、1947(昭和22)年から3次にわたり、米村さんや東京大学、北海道大学などの研究者らによって、住居跡や墓などの内容が調べられ、貝塚、オホーツク人の暮らしが明らかにされていきます。調査団の滞在費の一部は、地元の後援会によって賄われました。大正期から米村さんの地元での活動で、貝塚への理解を深めたことが背景にあったようです。妻いささんは調査団の食糧買い出しなど献身的な努力をしています。しかし、いささんが1949年(昭和24)年に病気で死去する悲しいできごともありました。後に、美登里さんと再婚し、米村さんの活動は支えられていきます。

 

博物館活動の先頭に立つ

 また戦後は、博物館法制定の機運が高まり、米村さんは制定運動の先頭に立ち1952(昭和27)年、同法は施行されます。これにより博物館に学芸員を置く必要が生じ、米村さんは同年、東京芸術大学の学芸員講習に参加し、考古学、民俗学、博物館実習などを学んで人文科学学芸員の資格を取得。芸大の講習中に、60歳の還暦を迎えます。

 

 1954(昭和29)年には、北海道巡行中の昭和天皇、光淳皇后を博物館に迎えます。この年は、博物館をテーマにしたユネスコ主催の国際セミナー(ギリシャ・アテネ)に、日本代表として出席しました。

 

 そんな米村さんの人生は、著名作家の目に留まるまでになります。1962(昭和37)年、動物作家の戸川幸夫氏(1912~2004年)は米村さんを主人公にした小説「軍部と闘った考古学者」を発表しました。内容はモヨロ貝塚発見、生い立ち、網走での生活、軍に抗議してモヨロ貝塚を守ったエピソード…。津軽なまりの米村さんの語り口も交えて、生涯のストーリーは展開します。フィクションもかなり盛り込んでいますが、米村さんの人生は、作家の創作意欲を刺激したのでしょう。

 

 一方、博物館の運営に力を尽くした米村さんは、戦中から司法、保護活動にも力を入れはじめ、戦後に本格化。保護司、地方裁判所、家庭裁判所の民事・家事調停委員などを長く続けます。遺稿集「モヨロ貝塚」の巻末に掲載された感謝状、表彰状などのリストは30件を超え壮観です。そして、1960(昭和35)年に網走市の名誉市民となったほか、北海道文化賞、北海道新聞文化賞、網走新聞文化賞、北海道開発功労賞などを受賞し、勲四等瑞宝章、藍綬褒章、紺綬褒章も受けています。

 

 晩年は周囲にこう語っていたそうです。「好きなことをして、人に褒められて、オレは幸せだった」

 

 米村さんは1981(昭和56)年、網走で88歳の天寿を全うします。長年の幅広い活動を象徴するように、多数の弔電が寄せられ、お葬式で読み上げるのに1時間半かかったそうです。さまざまな人間関係を巧みに作りながら、モヨロ貝塚の保存や社会活動を続けた米村さん。その人生は、生き方を象徴するようなエピソードで幕を閉じます。 


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