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人物レビュー 日本のシュリーマン 米村喜男衛 第1部「モヨロ貝塚と出会うまで」

執筆者の写真: masahiko fukuda
masahiko fukuda
2025年11月17日
読了時間: 7分

更新日:2025年12月21日

 

 網走市の史跡「モヨロ貝塚」。千数百年前に北方からの渡来民族が展開した「オホーツク文化」を代表する遺跡です。大正初期に若くして貝塚を発見したのは、米村喜男衛(よねむら・きおえ)さん。網走で、理髪店を経営しながら在野の考古学者として、モヨロ貝塚の調査、研究、保存に生涯を捧げました。その一生は、人生の先達として参考になるエピソードに満ちています。考古学とはアングルを変えて、その歩みをたどり、残してくれた価値を考えてみます。



        (若き日の米村喜男衛さん=米村衛さん提供)

 

司馬遼太郎氏が注目した人生

国民的作家、司馬遼太郎氏(1923~1996年)は、オホーツク文化と米村喜男衛さんの人生に強い関心を抱きました。1991年9月と、翌92年1月。稚内から知床にかけて、歴史と人間について思索しつつ旅をしています。そして作品にした「街道をゆく」シリーズの「オホーツク街道」。最初の舞台は網走、それも

米村さんのエピソードで物語は始まります。

 

 「網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、いままで知られていた〝歴史的日本人〟とはちがうひとびとが住んでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。…(中略)… 似たような人として、ハインリッヒ・シュリーマン(一八二二~九〇)と思いを重ねざるを得ない。どちらも無学歴で、在野の学者であった」(オホーツク街道)

 

網走川の河口の砂丘とは、モヨロ貝塚のこと。シュリーマンは、トロイア遺跡を発掘したドイツの実業家。子どものころ、父親から聞かされた話がきっかけで後年、トロイア遺跡発掘に向かったのは有名です。司馬氏はシュリーマンの生い立ちと、米村さんが祖母から民話、伝説を聞かされて育つなど共通点に着目。「日本のシュリーマン」とも称すべき米村さんの人生模様を何度も織り込みつつ、「オホーツク街道」を物語っていきます。

 

オホーツク文化とモヨロ貝塚

「〝歴史的日本人〟とはちがうひとびと」という言い回しには説明がいります。〝歴史的日本人〟とは、恐らく縄文人やアイヌ民族。それとは違うのは、千数百年前にサハリン、北海道のオホーツク沿岸、千島に渡来した海洋狩猟民族です。「オホーツク文化」という独自の文化を展開し、「オホーツク人」とも呼ばれます。また、モヨロ貝塚にちなみ、「モヨロ人」という名称も使われています。別名は「謎の海洋民族」「流氷の民」。歴史の舞台に忽然と現れ、忽然と姿を消したからです。では、どこからどこへ。現在では北方の大陸が起源とされ、北海道で同時並行に存在していた擦文文化に融合したという説が有力です。

 

 日本のシュリーマン、米村さんにとってのトロイア遺跡とも言うべき「モヨロ貝塚」はオホーツク文化の代表的な史跡で、8世紀ごろの集落の跡です。約2ヘクタールの敷地には、竪穴住居跡が20カ所以上。貝塚からはアサリ、ホタテ貝などのほか、クジラ、アザラシ、トドなどの骨が出土。多数の墓と人骨、土器、石器、骨角器のほか、大陸、本州系の金属器も出土しています。土器は外側に紐を貼り付けたような独特の模様(浮文)が一つの特徴で、死者の埋葬は頭を土器で覆った上で手足を折り曲げた屈葬です。

 

 米村さんがモヨロ貝塚を発見する前の明治期には、この一帯周辺遺跡があることは、報告されていましたが、詳細はわからない状態。米村さんの発見、調査・研究を機に、歴史的意義が認められるようになったのです。モヨロ貝塚は現在、国の指定史跡として保護され、網走市立郷土博物館の分館、モヨロ貝塚館があり、住居、お墓など人々の暮らしを紹介しています。

 

 


     (埋葬の様子を紹介する展示コーナー=モヨロ貝塚館)

 

祖母の民話と石器の発見

そんなモヨロ貝塚、オホーツク文化と米村さんは、どんないきさつで出会ったのでしょうか。米村さんは1892(明治25)年、青森県南津軽郡常盤村(現藤崎町)生まれ。長男だった米村さんは祖母に育てられ、強い影響を受けました。祖母はカチカチ山、猿蟹合戦などの民話や、地元の伝説、地元の名所旧跡のいわれなどを毎晩語り、昼には手を引いて物語の場所を案内してくれたそうです。「むかし、むかし」で始まり、津軽訛りで語る祖母の物語は、きっと伝説や古代の世界への興味、憧憬をはぐくんだことでしょう。

 

米村さんは尋常小学校3年の時に畑で偶然、尖った石ころ(石器)を発見します。小学校の先生に「大昔に石を割って刃物に使った頃のものかも知れない」と教わったことが石器、土器収集のきっかけになりました。よほど、印象が深かったのでしょう。後年、こんな感想を残しています。

 

「私は祖母からいろいろと話して聞かされたことが、大昔には実際にあったことのようであり、その石ころがそれに何かそれに関係があるように思われ、私はそこに秘密のおもしろさというものを感じたのである。それからというもの、私はもっともっと集めてみよう、と一生懸命になった」(米村喜男衛著「モヨロ貝塚 古代北方文化の発見」、以下自叙伝「モヨロ貝塚」。後年、モヨロ貝塚の発掘、調査に生涯を捧げた在野の考古学者の「心の原風景」と言えるでしょうか。この石器は、生涯、宝物にしていたそうです。

 

理髪店で修行、弘前、東京、網走へ

 米村さんは、尋常小学校(4年制)、高等小学校(4年制)と進みますが、家庭の事情で高等小学校3年進級後、まもなく中退します。そして、弘前で当時は床場(とこば)と呼ばれた理髪店の徒弟奉公をします。暇ができた時には史跡巡り、古代の遺物収集に励み、出土品を参考書で調べていました。

 

明治末期、6年の年期が明けて18歳になる年、考古学の熱が高じて上京、神田小川町の理髪店に就職します。古書店街で自由に本が買えるのが魅力だったそうです。「寸暇を惜しんで古本屋から本を探し求めては夜更けまで読み続け、働いて得た金は殆んど本代に注ぎ込んだ」(米村美登里編「米村喜男衛遺稿 モヨロ悠遠」、以下遺稿集「モヨロ悠遠」)。


 こうして読書に励み、貝塚や遺跡の研究踏査会に熱心に参加するうちに、東大人類学研究室の鳥居龍蔵先生(1870~1953年、当時講師、後に助教授)を訪問し、師事するようになります。鳥居先生は明治から昭和にかけ活躍した人類学、考古学の先駆者で、小学校を中退し、独学で人類学を学びました。同じ境遇の米村さんに自分の人生を重ねたのでしょうか。熱心に指導してくれたようです。

 

さて、当時の学会は、日本人の起源が重要な関心事で、北方に住む民族が注目され、アイヌ説など諸説が主張されていました。その中で鳥居先生の千島アイヌ研究が注目され、学会の関心はアイヌ文化に集まっていったのです。

 

 こうした学会の風を背に、米村喜男衛さんはアイヌ研究を志し、2年間の東京生活に別れを告げて、1912(明治45)年5月、19歳で初めて北海道に渡り、函館にたどり着きます。しかし、アイヌ民族に接するには、日高か北見方面でないと無理だとわかります。残念ながら情報不足は否めません。そこで、函館の理髪店で働き、旅費をためます。

 

ただ、ここで幸運の女神が若者に微笑みかけます。函館に着いて5カ月後、元号が明治から大正に代わった大正元年10月。網走線の野付牛(北見)~網走間が完成し、全線が開通。十勝と網走が鉄道で結ばれ、函館、札幌から網走まで列車で行けるようになったのです。

 

ついに貝塚発見 人生の転機に

 米村さんは、翌1913(大正2)年9月1日、21歳の誕生日に、函館からアイヌ研究の地として見当をつけた網走に向かいます。札幌を経由し旭川で1泊、帯広近くの池田で1泊。終着の網走に着いたのは3日目の夜。同じ道内とはいえ、かなりの長旅です。

 

      (現在のJR網走駅。モヨロ人の像が立っている)

  

 網走駅近くの宿に泊まって翌朝、散歩をしていると、見渡す限り原野の網走川河口付近に砂丘がありました。そして、その断面に厚さ1メートルほどの貝殻層が二重にも三重にも重なっているのを発見。そっと崩してみると、カキ、ホッキなどの貝殻の中から石器、骨角器、土器、さらには動物の骨が出てきました。先人の遺跡です。この時の興奮を米村さんは、こう振り返っています。

 「これは大変なものを発見したぞ。私は雀躍りしたい気持ちをおさえて、自分で自分に「おちつけ、おちつけ」といいきかせた。(中略)

ああ、私はついに貝塚を発見したのである」(自叙伝「モヨロ貝塚」

 土器を調べてみると、これまで見てきた縄文式や弥生式とはまっ

たく違ったものであることに気が付きます。住居址とみられる多くの竪穴も見つかります。

 

 オホーツク文化研究とっての記念碑、モヨロ貝塚発見の瞬間です。幸運でした。その理由は「オホーツク文化の遺跡にあって、貝塚と住居と墓の三者が唯一、一体となった遺跡である」(米村衛著「北辺の海の民 モヨロ貝塚」)からです。

 

発見当時はオホーツク文化など詳しい事情は分かっていません。しかし、貝塚のただならぬ特徴に驚いた米村さんはすぐさま、当初目的のアイヌ研究から方針を転換。網走に住まいを定め、モヨロ貝塚の調査、研究に取り組むことを決意します。時に1913(大正2)年9月4日。21歳の若者は、人生のターニングポイントに立ったのです。

 


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